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長編小説 霧のなかの巨塔  第49回

第三章 美しき旭日

■銀色の月②

「楽しいでしょうね。二百人近くの人と一緒の生活は……」

恵美がその様子を想像するように庭に面したガラス戸に目を移した。カーテンをまだしていない窓ガラスには、テーブルを囲んでいる家族の姿が映っていた。

「ねえ、ねえ、さっきのクイズの続きをしようよ、おじいちゃん……」正樹がもういいだろう、というように皆を見回す。

「あ、ほんと、正ちゃん、クイズが途中だったわね」恵美は優しい笑顔で正樹に応えた。

「ああ、いいよ、さてと、何処までいっていた……?」両手で顔を上下にこすりながら源吾がいう。ビールの酔いがまた少々だがまわってきたようである。眼が眠たそうだ。

「アメリカの機長たちが、エンジンの三基を止めて、一基だけで飛行することにしたが、それからが大変だったという所まで……」博樹も続きを祖父にせがむ。

「ああ、そうか、うん、ジョンがいっていた……ジャンボ機のような大型機は、一基だけのエンジンで飛行することは至難の技らしいんだな。空気の抵抗が非常に大きくなることと、そのために機体をどうしてもまっ直ぐ進めることができない。すぐ航路を逸脱してしまうんだ。絶えず昇降舵、いわゆるフラップとラダー、方向舵のことだが、これを常に操作し続けないと、推力不足のため失速、墜落ということになる。さらにこの状態での着陸時操作ときたら、とてもじゃないが想像を絶するものなんだ……」

源吾は言葉を切ると湯飲みを手にとる。

「……さて、こんな状態のなかで、ジョンがいた航空会社のジャンボ機機長で、無事に空港へ着陸させたのは何人くらいいたと思う……? ヒントは、ほんとにごく少数だということ……」

楽しそうに皆の顔を順にみながら源吾が質問した。

「五人……!」博樹が手を挙げて元気な声で答える。その様子はまるで小学生に還ったようだった。

「おう、じゃ、正樹は何人だと思う……?」源吾の顔は正樹の答えに期待しているようだ。

「三人……?」正樹は自信がなさそうだが大きな声だった。

「二人とも惜しいところだな。恵美さんは……?」

「じゃ、二人……!」恵美も元気な声でいう。正解だったでしょ……というように。

「恵美さんもハズレだな。残念でした。和江はどうだ?」

「わかんないな。あてずっぽうで、四人……?」

「全員がハズレでした。残念でした。」

「実際は何人が合格したの…?」正樹が真面目な顔で訊ねる。

「よし、正解をいおう。もちろん、シミュレーター装置においてのことだが、参加した機長、四十四人のうち三分の二が空港到着までに失速し墜落、三分の一が着陸時に失速して滑走路上に墜落、あるいはバランス調整に失敗して機首からの墜落や横転によって機体が大破、実際なら大惨事という結果だった。要するに、このテストに合格した者はゼロだったんだ……」

「なんだ、ゼロか、おじいちゃん、ごく少数っていうから、ひと桁の数字だろうとは思ったけど、ゼロだったとはね。そのジョンっていう人も、墜落組だったわけだね」

博樹ががっかりしたような声でいう。

「ああ、着陸時にバランスを崩して横転、左主翼から滑走路に突っ込んで大破、実際なら全員が死亡という結果だったそうだ」

「まあ、なんて恐ろしいこと……!」和江は口に手をあて、驚きの声を出した。あたかもその現場にいるかのように。

「それでさ、おじいちゃん、キャプテン増田はどうだったの……?」正樹はそれが一番大事なことといわんばかりの口調だ。

「うん、正樹、そこだよな……アメリカの航空会社の現役であるジャンボ機機長がこぞって失敗する極限の状態における操縦技術……それは機長たちが一生に一度あるかないかといった、非常事態の設定だから、これに失敗したからといって、その機長の操縦技術に未熟さがあったと批判はできない。着陸失敗組だったジョンがスペースシャトルの機長に抜擢されていることからも、このテストは単なる体験飛行に過ぎないものだった。しかし、こういった極限の状態のなかでも、キャプテン・増田は見事というよりも、完璧に着陸させたうえ、その着陸姿勢も通常とまったく変わることがなかったそうだ……」

正樹は感動して思わず拍手をおくる。皆も正樹につられるように拍手を始めた。あたかも、そのジャンボ機に乗り合わせていた搭乗客たちであったかのように。

「……最高の機長だった、増田機長は。皆が失敗したあとに増田機長は模範操縦を示した。その操縦操作は別室の大型モニターで全員が見ていたそうなんだが、進入角度、着陸時の速度や空港付近の気流状態などを瞬時に頭脳で消化して、まったく文句のつけようがない操縦だった。さらに着陸時の接地ショックもゼロだったというんだ……アメリカの機長たちは拍手をすることも忘れて、しばらく呆然としていたという。ジョンも増田機長の操縦技術には、自分たちにたちうち出来るものではないといっていた。ジョンはスペースシャトルのベテラン機長なんだぞ……」

正樹はその話に頬が熱くなるような興奮を覚えていた。自分もそんな機長になってみたい……心からそう思っていた。父母が搭乗していたジャンボ機の空中衝突事故、その機長が世界の航空界に知られたキャプテン・増田だったという偶然の縁が、正樹の将来を決めることになったのも、恵美たちがとりもった不思議な運命といえるだろう。これから約三十年後の正樹が、まだ当時においても世界で数機しかない成層圏飛行の超音速巨大機MD80型機、日本最初の機長ライセンスを取得し、また抜群の操縦技術と沈着さで世界に名を馳せる名機長になるのだから……運命とはまったく不思議なものだ。

それから三十分近くも飛行機談義が続いていた。

 

 

「よかったわねえ、博ちゃんも正ちゃんも、おじいちゃんからキャプテン・増田のお話を聞かせてもらって。さあ、お母さんは、お夕飯の片づけをするわね、おばあちゃんに沢山のご馳走を作って戴いちゃって。ほんとにご馳走さま……」恵美が立ってテーブルの上を片づけ始めると、博樹と正樹がさっと立ち上がる。

「お母さんは座っていてよ、おばあちゃんも。あと片づけはオレたちがするんだ。お母さんは、これからしばらくは休養しなくちゃね……」正樹が母の肩に手をおき、座らせようとした。

「ありがとう、正ちゃん、博ちゃんも。でもお母さん、いまはもう元気そのもの。大丈夫よ……」

正樹や博樹の顔を見ながら恵美は嬉しそうにいう。

「ダメ、ダメ、お母さん。お母さんはいままで無理をしすぎだったんだよ。明日からは朝ごはんの支度も、お兄ちゃんと二人でするから、お母さんも、おばあちゃんも、ゆっくり休んでいてよ。お兄ちゃんとそう決めたんだ。オレ、お盆をもってくる……」正樹は廊下へ走り出るが、すぐ大きなお盆をもって戻ってきた。

「サンキュー、正樹」博樹は食器類を手早く盆に乗せる。その間に正樹は残ったご馳走の皿を両手にもってキッチンヘ運ぶ。

食器類を山のように乗せた盆を、博樹は曲芸師のようなポーズをとりながら立ち上がるとホイホイと掛け声を上げながら廊下へと出ていった。布巾をもってきた正樹は、テーブルの上を丁寧に拭いていく。実にかいがいしく動く子供たちだった。

「ありがとう、嬉しいわ。でもお母さんはもう何でもないのよ……」元気に溢れる恵美はじっとしてはいられない。

「恵美ちゃん。博ちゃん、正ちゃんに甘えなさいよ、今日だけでもね。明日からはみんなで一緒にしましょうよ、楽しくね。今日は恵美ちゃん、あなたはお客さんなの。わたしは博ちゃんと正ちゃんを、ちょっと手伝ってくるね」

「すみません、お義母さん。お疲れなのに、わたしが座りこんじゃってて……」申し訳なさそうに恵美が頭を下げる。

「なんの、なんの、あら、何時の間にかおじいちゃんのログセがうつっちゃったね。ま、恵美ちゃんは、ゆっくりしててね」

そこへ正樹が乾いた布巾をもって入ってきた。

「あ、おばあちゃん、休んでてくれないとオレたちでやるから……」立ち上がった祖母を座らせようとする正樹。

「ええ、有り難う正ちゃん、ちょっとお手伝いするだけよ……」笑顔で正樹に応えながら和江は廊下へと歩く。

「有り難う、おばあちゃん。お母さん、明日から買い物はお母さんだけじゃなくて、オレたちがいるときには、ちゃんと声を掛けてよ、一緒に行くからね、お母さん……」

テーブルを拭きながら正樹が頼み込むように恵美にいう。

源吾も和江も、ついこの前まで続いていた正樹の母への異常ともいえる反抗は知らない。父母に心配をかけさせたくない逸平も恵美も、一度としてそのことを口にしたことはなかった。

また正樹も祖父母の前では普通の子をよそおっていた。

逸平や恵美の様子から何かあるのではと以前に危惧を抱いたことがある和江だが、深刻なものであったことなど想像すらしていなかった。母想いの子供たちをもつ恵美は、ほんとうに幸せな人だと思っていた。

居間の時計はもう八時半を過ぎていた。子供たちと和江はキッチンで賑やかに夕食の後片づけをしている。食器類がぶつかり合う音と博樹と正樹の笑い声が聞こえてきた。

源吾と恵美はテレビのニュースを見ている。羽田空港での着陸のニュースは終わり、台風18号の予想進路を伝えていた。

・・・観測史上でも稀にみる、猛烈な台風18号の中心気圧は890ヘクトパスカル、瞬間最大風速は70メートルで、半径500キロ以内では25メートル以上の暴風雨となっています。午後9時現在、台風は紀伊半島の南方約600キロの海上を毎時35キロと次第に速度を早めながら、北北西に進んでいます。今後は急速に北寄りへ向きを変え、明日朝には室戸岬の沖、300キロの海上に接近、明日夕刻には福岡県から宮崎県にかけて上陸する可能性が高くなっています。明日朝には四国全域が暴風雨圏に入り、午後には広島県の一部と山口県、そして九州の全域が25メートル以上の暴風雨域にはいるものと予想されます。さきほど7時43分、室戸岬では瞬間風速48メートルを観測・・・

「恵美さん、これは、ほんとに猛烈な台風だな……帰ってくるのがタッチの差でセーフになってよかったよ。もう少し遅い便を予定していたら、今日も、明日も帰ってこれなかったぞ、欠航が続いて……ま、そのかわり、今日のような怖い思いはしなかっただろうけどね……」

「ほんと、お義父さん。大変な台風だわ。別府のセンターでは今朝、快晴だったのよ、きれいなコバルト色の空が広がってて。それが飛行機に乗る頃には、真っ黒な雲に覆われちゃったの……ほんとに急なお天気の崩れ方だったわ」別府を出る頃の話をしている恵美の後ろで、逸平は軽いイビキをかいていたが、何かに驚いたかのようにパッと起き上がった。

「あら、あなた、さっと起きれるのね。いまの今までイビキをかいて眠っていらしたのに……」

「イビキをかいていたって? よく眠っちまってたんだな、ビールをちょっと飲んだだけで急に酔いがまわっちまった……」

眠たさがまだ残っているのだろう。目をこすっている。

「まだ眠たそうよ、あなた。もう少し眠ったら……?」

「びっくりさせるなよ、逸平。急にガバッと起きられると心臓が止まるほどびっくりするぞ」源吾がメガネを外しながらいう。

「ん……子供たちやおふくろは……?」逸平が見回す。

「キッチンでお夕飯の後片づけよ。わたしには休んでいなさいって、みんなが……申し訳なくて、わたし……」落ち着いて座ってはいられないというように、恵美はそわそわしている。

「なんの、なんの、恵美さんは休んでいることだ。今日は恵美さんはお客さんなんだからな……」

「だってお義父さん、みんなにわたしの仕事をしてもらっては、わたしの居所がなくなってしまいそうだもの……」

「いいんだよ、恵美さん。みんな嬉しくてそうしてるんだよ。その気持ちに甘えなさい。それがまた皆には嬉しいんだ」

「オヤジのいうとおりだよ、恵美。休んでいなさい。あんな大病のあとなんだから、徹底的に養生しないと。オレが皆に叱られることになるんだ、また疲れさせたりしたら……」

逸平は座り直しながら諭すようにいった。

しばらくした後、博樹と正樹がニコニコしながら戻ってくる。

「あ、お父さん、起きてたの? 後片づけは完了しました。三人でやれば早いもんだよ。な、兄ちゃん……」正樹と博樹は恵美が逸平に付き添って大阪へ行った頃から、それまでのことが信じられないほど仲がよくなっていた。

「なあ、正樹はお母さんが元気になって帰ってきたもんだから嬉しくて張り切っちまって。こういうオレもそうだけどな……」

そういうと博樹は大きな豪傑笑いをする。

「そう、そう、いま、おばあちゃんが鳥取の梨をもってきてくれるからね。隣の山内さんからもらったんだって。お母さんのはおろしたやつだよ、胃が未だ出来ていないものね」博樹の横に座りながら正樹が嬉しそうな声でいう。その顔は喜びをどのように表現したらよいか分からないような幸福感に満ちていた。

「ねえ、ねえ、お母さん、オーラの話を聞かせてよ。どんなものなの? そのオーラというものは……」正樹は真剣な顔だ。

ちょうどそこへ和江が梨を盛った大皿をもってきた。

「みんな、おまちどお様、お隣の山内さんが鳥取の親戚から沢山もらわれたんだって。家に五つも下さったの。恵美ちゃんのはこのカップよ。おろしで擦っておいたの、まだ固いのは無理だからね……」和江は受け皿に乗せたティーカップとスプーンを恵美の前にそっとおいた。

「お義母さん、すみません、ほんとにお客さんになっちゃって……」

「なんの、なんの、ゆっくり食べてね」源吾のログセだった『なんの、なんの』という言葉が何時の間にか和江や子供たちのあいだにも広がってしまっていた。

「甘いねこの梨、香りも最高だよ!」正樹が感激していう。

「ほんとに甘いな。こんなに甘い梨は久しぶりに食べたような気がするよ、なあ、正樹……」

「……」正樹は頷くだけで無言で、食べることに夢中だ。頬がふくらみ、まるで食べ物を口に詰めたリスのようだ。

 

(つづく)

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