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長編小説 霧のなかの巨塔  第47回

第三章 美しき旭日

■秋の陽炎②

「鵜の木3丁目、分かりました。有り難うございます。私、大同タクシーの横溝と申します」運転手が帽子をとり挨拶をした。

タクシーは弁天橋を通り、第1京浜国道へと走っている。

ニケ月前、逸平はこの同じ道を流刑地へ向かう囚人のように、寂寞とした暗く重い気持ちで外賀総合病院へのタクシーに乗っていたことをまた思い出していた。行き交うマイカーのドライバーを見るとき、彼らを待つ暖かく明るい家庭があることを思うと、いいようのない恨めしさを感じていたことが、昨日のことのように脳裏に浮かんでくる。

それにひきかえ今は何という幸せ……! 健康そのもの、いや、それ以上の健やかさと美しさを克ち得てくれた恵美、その恵美と子供たちという家族とともに我が家へ急いでいる……これ以上の幸せがあるだろうか。エンジェルのように優しく、美しい妻の恵美。自分にとって、かけがえのない恵美を馴し、会社の部下たちをも騙して千鶴との不倫の愛に溺れていた自分を思うと、その愚かさに顔が赤らむのを感じる逸平だった。

その愚かな自分との愛を清算するために考えた、恋人とのドライブ旅行で千鶴の若き命が奪われることになってしまったとは……『奥さまを大事にしてあげて』 こういっていた千鶴の想いが恵美の体に生じた神秘的なパワーの源になっている……千鶴は自分のうら若い「命」というエネルギーを恵美に捧げてくれたのに違いない……ありがとう千鶴……!。

そう思う逸平は心のなかで手の合わせ千鶴に感謝するはかなかった。タクシーは第1京浜国道を下りて、環状7号線へはいっていく。我が家はもうすぐだ……

 

 

その日、逸平の家での夕食は久しぶりに、賑やかで楽しい時間になっていた。正樹と博樹のはしゃいだ声が、その賑やかさに輪をかけている。長女の梨香はまだ旅行中だ。

「ねえ、お母さん、人は運が悪いというかもしれないけどさ、数えるほどしか飛行機に乗らないお母さんに、こんな大冒険が出来たなんて、運が悪いんじゃなくて逆に最高のラッキーだったと思うな。ケガをすることもなくさ、よほどタイミングが合わないと体験することができない幾つものハプニングが起きたんだものね、人に自慢できるような……空中衝突に、脚が出ない緊急着陸に脱出シュートだよ。まるで映画のシーンそのものだよ……」

正樹はその話をしているだけで興奮してくるのだろう、顔が紅潮している。

事実、滅多に起きることのないジャンボ機と小型機の空中衝突……そして脚の出ない機が緊急着陸したが全員がケガひとつせず無事生還したニュースは映画のハッピーエンドと同じもの。

それを正樹の父母が体験したのである。正樹が興奮するのは当然であろう。興奮しないほうが不自然かもしれない。

「正ちゃん、人に自慢できるようなお話じゃないわ。一人のパイロットの命が、私たちの感じた衝撃の瞬間に消えたかと思うとほんとに悲しかったわ……まったく知らない人だけど、お母さん涙がでてきちゃった……機長さんが、衝突した小型機のパイロッ卜は絶望の模様ですって皆に知らせたとき……」

「分かるような気がするわ、恵美ちゃんの気持ち……その瞬間が分かっているということは、他人ごとには思えないものね、でも、そんな小さい飛行機がどうしてジャンボが飛ぶような高い所を飛んでいたのかしらね。飛ぶ高さは決められているだろうに……」和江が分からないというように恵美を見る。

逸平は久しぶりに飲んだビールで酔ったようだ。恵美の後ろで頭を肘で支えて畳に寝そべり目を閉じていた。

博樹や正樹はまた好みのネタで手巻きずしを作っている。ときどき母や祖母を見ながら。

源吾は皆の話を聞きながらビールを手酌でついでいる。恵美が注ごうとしても手酌がいちばん旨いといって。

恵美の気遣いは嬉しかったが、酒呑みの心境というものは酒でもビールでも手酌がいちばんだ。

「機長さんが説明していたけど、乱気流に巻き込まれて、突然に操縦席の直前に下から突っ込んできたんだって。そのとき私たちが乗った飛行機の周りはひどい嵐だったわ。稲妻と猛烈な雨と風で……そのとき、前のほうの座席の人が叫んでた。下から棒立ちになった飛行機が来るぞ~って……」

「棒立ちになっていたんだったら、猛烈な気流に振り回されたんだね、きっと……あ、忘れてた、もうすぐ7時のニュースだ。

多分、トップニュースだよ、今日の飛行機事故……」

博樹はジュースを入れたグラスを持ったまま立ち上がる。

「うん、ニュース?」源吾は後ろにある掛け時計を見上げた。

「……ああ、6時58分か、ニュースだ……」

「おい、おい、逸平、そんなところで寝ているとカゼひくぞ」

肘枕をして目を閉じていた逸平に源吾が声をかけた。

「あ、うん、大丈夫だよ、寝てなんかいないさ。ニュースだろ? もうすぐ……」逸平は目をこすりながらいう。

「あら、あなた、ずいぶん器用なのね。寝てるんかと思ったらちゃんと博ちゃんの声を聞いてたのね。さっき、イビキをかいていたのに……」びっくりしたようにいう恵美。

「ニュースが始まったよ」博樹が大きな声で知らせる。

博樹が予想したとおりトップニュースはJIAジャンボ機の緊急着陸だった。『ホノルル発ジャンボ機・羽田に不時着』というタイトルで……このニュースを中心に時間を三十分延長するとアナウンサーが前もって伝える。

放映された映像は屋上の送迎デッキからであろうか、ジャンボ機が接近する光景から機首滑走で停止するまでを克明に写していた。ズームでクローズアップされた前輪部分には、やはり着陸脚は出ていない。前輪格納室の部分に大きな孔を開けられ、横腹まで斜めに切り裂かれたような疵が見え、外壁の一部は垂れ下がっていた。主輪で通常どおりの着陸をしたあと、かなり長い距離を機首上げ姿勢のまま滑走してから、徐々に機首が下がっていく。

前のめりになり機首が滑走路と接触した瞬間、白っぽい煙と昼間でもはっきり分かる彗星の尾のような火花が、後方へ光の帯をつくった。壮絶といえる機首滑走はわずか二百メートルほどで終わる。火災も翼の損傷も画面からは認められない。

前のめりになった巨大なジャンボ機は、垂直尾翼を高く上げ静かに停止していた。機の着陸と同時にターミナルビルの両端から二十台近い消防車や救急車、また黄色に塗装された作業車が赤やオレンジ色の回転灯を作動させ、まるで獲物に群がる猛獣のようにジャンボ機へ向かっていった。ことに超大型といえる小山のようなクレーン車は目を見張るものがある。

音声はなかったが、それらのサイレン音があったら、より騒然とした現場の臨場感が生じたことだろう。

現場の上空からヘリで撮影された映像もあった。機体憾滑走路の白線を胴体の真下において、且つ機首中央部は白線の真上に置かれていた。

「すごい! 機首は白線上で真っ正面を向いている!」

博樹はテレビ画面を見つめたまま独りごとのようにいう。

ニュースによると事故当時の遠州灘上空は、台風の影響による高さが七万フィートを超える稀に見る規模の積乱雲層があって、南北の雲域が600km、東西の幅は90kmという細長い暴風域と乱気流域をつくっていた。

ジャンボ機は通常航行空域の九千メートルから乱気流が比較的弱いと航空管制所から連絡を受けた六千メートル域へ管制所の許可を得て空域変更で航行していた。一方、東京・多摩飛行場を離陸、松山空港へ向かっていたファミロンAという小型機は、許可されていた三千メートル空域を飛行、このままなら小型機とジャンボ機の衝突など決して起きるわけがない。

しかし、現場空域の気流が激しいことを多摩飛行場を離陸する折り、管制官から知らされていたのに小型機のパイロッ卜は無謀にも、この積乱雲層に突入して猛烈な乱気流に巻き込まれ、急速に上空へ押し上げられたのだろうと航空関係者の話として原因を推測していた。

またニュースではこの事故の三十分ほど前、千歳発福岡行きのアジア航空18便、MD10型機も同じ空域の高度一万二千メートル域を航行中、突然エアポケットにつかまり千メートル近く落下、シートベルト着用サインが出ていなかったため、乗客乗員221人のうち8人が骨折などの重傷、17人が軽傷を負って名古屋空港に緊急着陸をしたという報道もされる。

「ねえ、ねえ……同じ場所で別の旅客機も事故を起こしていたんだ……!」正樹が甲高い大きな声をだす。そのニュースには皆も驚いた。恵美と逸平も、あの金色に輝いていた黒い雲の頂を思い出す。まだまだ獲物となる航空機を誘い込むような魔力に満ちたその美しさを……

「MD10型っていったらさ……」いつも落ち着いている博樹だったが今は興奮した口調になっていた。別の旅客機までが同じ空域で事故を起こしていたのだから。

「……大型の旅客機だよ、3基エンジンの。これも国際線によく使われている、ジャンボ機と同じくらいに大きい航空機だぜ……それを千メートルも突き落とすなんて、何て恐ろしい空域なんだろうね……ほんとうに魔の空域だったんだ……」博樹はそういいながらテレビ画面をくい入るように見つめている。

画面はジャンボ機の元機長とアナウンサーとの対談になっていた。その元機長は乱気流域を通過するというのに、ベルト着用サインを出さなかったMD10型機の運航クルーたちを痛烈に批判していた。たとえ積乱雲層の上層部であるといっても、乱気流域というものは想像を絶するものであるのに、そこを通過するのにベルト着用サインを出さなかったのは犯罪ともいえる行為だといって。

それにひきかえ、ジャンボ機の機長に対しては惜しみない賞賛の言葉を尽くしていた。機の直前に真下から出現した小型機をかわしてコクピット直撃を回避するなどということは、この巨大な機体からいってまず不可能だという。それが出来るのは神業ともいえる操縦技術を有するパイロットで、そんなパイロットは世界に数人だろう……自分も国際線の機長を長らくやってきたが、自分などにはとても、そんな回避操作はできなかっただろう。

しかし、この機の機長が増田譲二という名であることを聞いて、彼だからこそ、この瞬時における的確な操作が出来たのだと、尊敬の念とともに拍手を送ったと話す。

また、あの主輪だけの着陸技術もよほど熟練したものでないと機体が左右に蛇行することに抗することができないという。それを先程のビデオ映像のように、滑走路の中央部を示す白線上にぴったりと止めるなどということは優秀な機長でも不可能。少なくとも数メートルは中央線から反れるのが普通である。

それなのに、あの計ったかのようにぴったり止めることが出来るのはこの増田機長くらいだろう……この機長は、キャプテン増田といわれる世界の航空界に知られた名機長だと賞賛した。

 

「すっげぇ~! お母さんたちが乗ったジャンボの機長、ものすげぇ大物だったんだ……キャプテン・マスダか、映画の主人公みたいだね……」正樹は目は輝やかせていった。

「まったくだ、世界にも名を知られた機長だったとはな。おい、ちょっと説明を聞いて……」

博樹はこの元機長の話に注意を向ける。増田は二年前、今日の事故よりもっとひどい落雷による損傷を受けたジャンボ機を、イギリスの空港に無事緊急着陸させた機長だと紹介した。

北大西洋上空一万六千メートルを航行中に両主翼の結氷を起こし、氷を溶かすためにやむを得ず、その空域を管制するルーイ航空管制所の許可を得て、飛行空域を一万メートルに空域変更し降下中、左主翼に被雷し翼の一部とエンジンー基が脱落、さらに破壊された主翼からは機器制御のためのオイルが大量に漏れ出してしまった……この元機長の話に皆は息を止めて聞きいっている。その経過はまさに航空小説にでてくるような、緊張と感激のストーリーだった。

元機長の話が終わると源吾は珍しく感激した顔でいう。眠っている逸平をのぞいて皆が源吾の顔をみた。

「この話でいま思い出したよ。このキャプテン・マスダという名前を……ケープカナベラルの発射基地へ以前行ったとき、スペースシャトルの船長でジョン・カーペンターという男に会ったことがある。彼もジャンボ機の機長ライセンスを持っているんだが、何かのときに私に聞いたんだよ、JIAのキャプテン・マスダを知っているかとね。彼がいうには、増田機長がゴールド・リボン賞を受けた数ヶ月後、米国連邦運輸局の招待を受けて、北米各地の航空会社の運航乗務員を対象にシミュレーターで……」

「シミュレーターって……?」正樹が聞きただす。

「ああ、実際と同じ操縦状態と感覚をつくりだす機械だよ。航空機の場合、アメリカのスペースシャトルもそうだが、各機種ごとに、こういう機械が作られていてな、機械の中は操縦室そのものになっていて、実物と同じ計器類や操縦機器があるんだ。操縦席の窓には、操縦操作そのものにコンピュータでつくられた映像が実際と同じように映しだされるんだ。そればかりじゃないよ、正樹。機械の室内には旋回したときや離陸、着陸、衝突や墜落などといった状態を揺れや振動、音までも合成して、実際の操縦状態そのものを感じさせるんだ。管制塔との交信を含めて……

空は飛ばないが同じ機能をもった操縦訓練機だよ」源吾は正樹に分かるようにゆっくりと説明する。

「へぇ~、そんな機械があるのか……それだったら、訓練中に操縦を間違えて墜落しても感覚だけで終わるわけだね」

「そう、その機械で増田機長は、アメリカのジャンボ機パイロッ卜たちに極限状態を設定したシミュレーターを使って操縦技術の訓練をしたんだ……」

「すっごいなあ、日本人がアメリカのパイロットを指導するなんて……アメリカがジャンボの生産国じゃない……!」

博樹が感激した大きな声を出した。

「ほんとだよ、子供が親を教育するみたいじゃないか!」正樹の名言に恵美や和江が大笑いした。

「正ちゃん、うまいこといったわねえ、名言だわ……」恵美は正樹を見て手を叩きながら誉める。

 

(つづく)

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