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長編小説 霧のなかの巨塔  第32回

第三章 美しき旭日

■落葉①

残暑が厳しかった東京でも、十月の初旬ともなると、日中でも涼しさを感じるようになる。

昨日からの雨が塵に汚れた都心の空気や街並みを洗い流すかのように今も降っている。

JR品川駅にほど近い、ここ外賀総合病院の会議室は重苦しい空気に包まれていた。換気装置の調子が悪いのだろう、室内にはタバコの煙が充満している。通路にある二つの出入り口ドアには『関係者以外の入室を禁ず』という朱書きの紙が貼られている。

通路には三人の係員が折り畳みイスに座っていた。

病院の表玄関前には、数台のテレビ中継車が置かれ、六、七十人の報道関係者たちが玄関まえを埋めている。数日まえ、この病院が家宅捜査を受けたことを報道していたときより、今のほうがずっと多い人間がたむろしていた。警察のなにか新しい情報をつかんだのかもしれない。玄関から出てくる病院職員がいるとわっとばかり取り囲む。その様子は、まるで獲物を取り囲む野獣のようだ。

病院の裏手にある職員通用口のまえにも、二十人余りの報道関係者がビデオカメラやプレスカメラをもって出てくる人間を待ち構えている。降りしきる雨のなかで……

 

騒然とした外部をよそに、ここ、本館四階の会議室前には、いまも三人の係員がイスに座って警備に当たっている。当然に近づく者もいないし、なかからの声も聞こえない。

会議の出席者は各科の医長、看護師長、技師長、検査室長、本部関係の理事、各部課長と係長など約八十人ほどだ。会議室の掛け時計は十三時四十分になるところだった。

専務理事の大日向が話しをしているが、その話を真剣に聞こうとしている人間はほとんどいない。タバコをふかして天井に煙を吹きかけている者、腕を組んでシカメ面で床を睨んでいる者、たた、ぼんやりと正面の壁をみつめている者、また女医らしい白衣の女性は、ノートに人体解剖図を描いている。見渡す限り、誰ひとりとして、話を続けている大日向のほうをむいている者はいないようだ。実に暗く重苦しい雰囲気だ。その様子からして会議の内容は、おのずから察しがつくというものである。

 

「……病院長、外賀萬蔵が麻薬不正購入、さらにフランスのマフィア組織への横流しという前代未聞のスキャンダルが露見し、麻薬取締法違反、外為法違反、脱税などで逮捕、内科医長の堀口君は医師法違反で逮捕され拘留中です。さらに現在は、医師法、薬事法、各種補助金の水増し請求による詐欺罪、法人税法違反などに抵触する行為について、捜査当局は徹底して関係者への事情聴取を行っています。昨日、聴取を受けていた太田薬剤管理部長が、公正証書元本不実記載で、また三田村事務局長も私文書変造容疑で二人とも逮捕されました。

警視庁もマスコミも今や、病院ぐるみの犯罪とみています。

今後、さまざまな容疑で皆さん自身が逮捕、送検される危険性が高くなってきました。現在、警視庁では関係者の逮捕に向けての内偵と証拠固めにあたっています。

情報では、本年度末までには、この外賀総合病院に対して、保険医療機関取り消しの処分が下されるようです。外賀病院長の言語道断の犯罪が、この異例ともいえる早期の処分裁定に至ったようです……」

 

話をしていた痩せ型の大日向は言葉を切ると卓上のグラスを手にする。沈痛なおももちで話しをしているのは、外賀総合病院の専務理事、大日向清一である。病院長であり理事長である外賀萬蔵が逮捕拘留中のいま、内規によって理事長代行の責にある。

外賀の目に余るワンマン経営に対し、いつも暴走への歯止めとなってきたのが、穏健派の大日向だった。外賀総合病院が現在までの三十四年間、まがりなりにも、平穏に経過してこれたのは、大日向の貢献のおかげてあったことは間違いない。

東京都庁、また有力政治家とのつながりもある程度はもっていたが、今度のスキャンダルだけは手の打ちようがなかった。事件発生と同時にすべての機関が動き出してしまったのである。余りにも展開が早く大日向が動く時間がなかった。

外賀病院長の麻薬横流しについては、二年前に太田管理部長から相談を受け、初めて院長の犯罪行為を知った。幾度も外賀に注意をしたが、『ああ、わかった。ありがとう、今月までということで先方に話をつける』というだけで、数ヶ月後に管理状態を調べると、相変らず同様の品目が入庫と出庫を繰り返していた。売掛処理されていたものは遅滞なく入金していたが、当然に外賀の着服分は太田の差額調整によって数字上には出ないようになっていた。

何か手を打たねばと考えているうちに、時間だけが経過していき、そんなときに准看護師の松川由美によるあの事件が起きてしまったのである。

大日向は今もあの救急患者が搬送されてきた不運を恨めしくおもっていた。あの患者さえ搬送されてこなかったら、松川による医療事故はなかっただろうし、また彼女の投身自殺もなかった筈である。この松川の遺書から東京でも大規模とされている「外賀総合病院」が瞬く間に消滅することになってしまった。

これは、「運命」としかいえない偶発的な経過なのだが、大日向にとって、そう簡単に割りきって考えることはどうしてもできない。外賀病院長やその配下の人間が起こした不始末よりも、搬送されてきた救急患者に対する恨めしさが先にたってしまうのである。穏健派である大日向の考え方としては信じられないような感情だが、ここに至った現実を考えるとき大日向の感情を批判することは酷のようにも思えるのである。

 

「……この件については、いまさら、どうすることもできませんが、捜査当局の動きには十二分の注意、警戒をしてください。今後、誰が如何なる容疑で逮捕されることになるのか、予断を許しません。皆さんの医局、研究室等の各部所、また自宅への家宅捜索が予測されます。当病院の関係者全員の住所録が当局に押収されている今、突然に来ることもありますから、各自におかれては、業務机、また家庭においても、不用意なものを置いておかないように、各自、において秘密裡に身辺の整理をしておいてください。いいですか、これは病院のために言っているんじゃありませんよ! あなたがたのために言っているんです。病院の消滅という事態はもう、どうしようもありません。あなた方の身辺を整理しておくことは、皆さんの身を守るための対処策です。きょうから直ぐ始めてください。

よろしく頼みます。さて、これからは伝達事項になりますから、よく聞いていて下さい。これからは印刷物による回覧はしません。口頭による連絡だけにしますから。そのように心得て下さい。いいですね……」

大日向の今後は文書による回覧は中止するという言葉で、出席者はバサバサと音をたててノートを広げメモする準備を始める。一瞬にして出席者の態度が変わった。

「……入院患者の転院手続ですが、処分が通告されてから処置していては、またまたその遅さがいいスキャンダルにされますから、理事会において本日、患者の移送開始日と移送先を先方と協議して決定しました。移送先をいいます。

帝北大学付属病院、神奈川中央共済病院、都立巣鴨第一病院、都立駿河台第二病院の四病院からは最大限の受け入れ承諾を得ていますが、神奈川労災病院と船橋国保病院の二病院からは回答待ちとなっています。この病院も受け入れを承諾してくれれば、現在、入院中の患者さんは全員が収容して頂けることになります。

患者の移送開始は来週九日月曜日の朝八時から、当病院の救命救急車二輌と、先方の救命救急車のお世話を極力頂けることになっています。いうまでもありませんが、新規入院患者の受け入れは本日16:00から禁止します。また本日16:00以降にオペの予定がある診療科はさきに挙げました四病院のうち、帝北大学付属病院の各診療科に転院させて下さい。

この病院名と担当医師の名前を告げて適宜搬送して下さい。搬送必要時に当院の救急車が別の搬送業務に当たっているときは、私に連絡をされたい。民間の寝台車をチャーターします。いいですか、間違いないように控えておいて下さいよ。転院させるときには、カルテ、その他写真類等の資料はすべて忘れないよう添付して先方病院にわたすこと、いいね。

そして、本日16:00以降、重症患者の受け入れは禁止します。救命センターの関係者は救急隊の対応に間違いないように。なお、東京消防庁へは救急患者受けいれ辞退の電話連絡とFAXで本日午前10:00付けで総消防士長に連絡済み、正式な書類は本日午前中に消防庁へ書留便にて発送済です……」

期日や時間の通知事項が出てくると、今まで我れ知らずという態度を続けていた出席者たちはみな真剣にメモをとり始めた。『自宅へも家宅捜索の可能性が強い』という言葉を聞いてから出席者の間に、恐怖にかられた真剣さがうかがえる。

誰の目にも現況を考えると病院消滅は時間の問題であることが分かってきた。その感覚のなかで、大日向から改めてその言葉を聞かされると一様に強い恐怖感が体を突き抜けた。

 

……こんな会議なんか早く終えてくれよ、まったく。そんな入院患者のことなんざ、オレの知ったことか、まだほかす書類やメモの整理中なんだぞ。こんなときに、急に招集なんかをかけやがって、バカ野郎めが!……

ひとり、メモをとることもなく、大日向を睨むように見ているのは、管理課長の伊東粂二である。イライラして、いても立ってもいられない気持ちだった。

時間がないのだ。薬務局長の三田村は重要参考人として昨日の午後、警視庁に任意同行を求められて今も拘留中である。自分に手が回るのは時間の問題なのだ。

伊東は三田村と共にメーカーから納入される局所麻酔剤、コカインの納入数を大幅に水増しして納入させ、病院から支払われた膨大な金額の一部は、メーカー側が値引き過剰金として伊東が開設した伊東名義の口座に取引の都度、戻されていて、いまその残高は九千万円を超えている。

メーカー側営業社員に外科医局研究費の捻出策として、メーカー有印の納品書、請求書を十冊ずつ手にいれ、適宜、ホンモノ同様の字体をコンピュータで合成し、それでもって随時納品数のチェック逃れをしてきた。三田村が一定金額になり次第、伊東名義の通知預金証書として三田村の管理する大金庫の下に貼り付けた木箱に保管している。

外賀萬蔵がこのような操作をして外賀個人の利益を図っていたことは、これまでの定期的な税務調査でも露見したことはなかった。

しかし、三田村の逮捕は確実と思われるいま、この犯罪行為があばかれることは必定になってきた。局長の指示によるものといっても、裏給与を毎月25万円受け取っていることは共犯を実証している。昨日の夕刻から自分の業務机や書ダナのファイル類、さらに書庫にある二年前からの書類も調べる必要もあるのだ。少しでも証拠とされそうなものはすべて破棄してきたが、一枚一枚、確認しながらの作業で、なかなかはかどらない。時間だけが過ぎていった。そこへ、午前中にこの緊急会議へ出席するよう至急回覧が回ってきた。

在室していたため、欠席することはできない。もちろん、伊東には、自分の逮捕が目前に迫っていることが分かり覚悟していた。三田村が品川中央警察署の捜査員に任意として連行されたときから……いまさら整理していたって、どうなるものでもない。

三田村が追及されるなかで、直ぐ伊東の名を挙げることは分かりきったことである。

会議のさなかでも、家のことが気になった。家宅捜索に入られているのではないかと、ここに座っていることが苦痛でならない。

伊東粂二は今年で四十一歳である。ついこの前、妻にいわれるまま近くの神社で厄落としのお祓いをしたばかりだ。その効果は無に帰したようだ。東京の私立大学の経済学部を卒業後、八年ほど外資系会社に勤務していたが、父親の友人である外賀萬蔵の勧めがあり、待遇も現行より十万円近く上がるため、直ぐに外賀総合病院の事務局に勤務するようになる。

十二年前のことだった。真面目で正確な業務遂行が認められ、前局長の大澤が定年退職をしたあと、管理課長だった三田村が薬務局長に昇格、同時に薬事課長には係長だった伊東が昇格する人事異動がある。二年前のことだった。

伊東は妻と大学四回生の長男、高校三年の長女という四人家族だ。購入した新築住宅のローン返済額も増えたばかりのとき、三田村からの依頼を受けることになってしまった。今の課長という席を護るためにも、家族を護るためにも、毎月二十五万円、また毎年五万円ずつの昇給という裏給与には文句なく飛びついてしまった。伊東には大変な金額である。

……オレの発案じゃないし、オレがごまかしたんでもない。局長に指示されてやったんだよ。どっちかといえばオレは被害者なんだぞ。何を恐れているんだよ、ビクつくなよ、バカらしい、どんとこいや……伊東はそんな思いになってみたが、そんな肝っ玉が据わった行動など伊東の細かな性格からできることではない。

イライラしているうちにただ、時間だけが過ぎていった。大日向の話など伊東の耳には入っていない。彼の脳は完全な「無」のなかにおかれている。これから起きることになってしまった伊東の家庭に起きる悲劇は予想すらできなかった……

 

「……本日10:00に東京消防庁へ救急指定病院の辞退届をFAXし、書留郵便でも発送してあります。ただ、時間的に末端まで行き渡ることが今日のうちは無理かと思われます。

そのため、深夜までは救急搬送があるかもしれませんが、そのときには帝北大学病院へ搬送してもらって下さい。この件、当直者に十分徹底して下さい。決して受け入れることがないように。救命センター、頼みましたよ、いいね。そのようなわけで、十一月末日で廃業し外賀綜合病院を閉鎖します。このため、二回に分けて指名解雇します。今月末の第一回には二百五十名、来月十一月末では残りの三十八名の解雇となります。なお、いずれも予告期間に関係なく、退職金規定の50%アップで解雇当日に現金でお渡しします。

今月末で解雇する方々の名簿は、この会議室で午後五時に掲示します。各部署への連絡の徹底を頼みます。また雇用保険は当然、即日の適用になります……」

 

この外賀綜合病院が、来月十一月末で閉鎖になるとは、この会議に出席していた誰もが予想すらしていなかった。みなの観測では今の状況からいくと、病院閉鎖は東京都からの処分決定通知書が来てから、それは十二月末頃だろうから、事業年度からいくと来年の三月になるだろう……というのがおおかたの予想だった。

ごく一部の者はすでに次の転職先を探っているようだったが、ほとんどの人間が、まだ先のことに思われ何も考えてはいない。それどころか、もし逮捕されることがあったら、懲戒免職になる。運が悪いと医師免許や看護師免許、そのたの資格免許が取り消しや、一定期間の資格停止処分が下る。この会議に出席している者は一応、管理職という立場にある人間ばかり。医師法、薬事法違反という容疑なら、事務職以外の者みんなが抵触するだろう。

正資格のない准看護師に正看護師と同様の職務を強いている医師や看護師たちは文句なく医師法違反だ。どこの病院に勤務する医師や看護師も同様だ。それほど看護師が今は不足しているのである。だが事情はともあれ、逮捕されてしまっては、違反は違反であり否定することはできない。大日向の話を聞きながら、皆の頭のなかは、次の逮捕者は誰なのか、まさか自分などでは! そのあとはどんなことに……家族はどうなるんだ?

そんな不安と悲哀感がみんなの心に募っていった。

 

「さきほどいったように現入院患者の転院移送は来週九日から開始しますが、これからも次々と逮捕者が出る状況になったら、先方病院と協議するなか、移送を早めていきます。

さらに、外来患者の診療も来週九日の月曜日から停止します。いいかな、ちゃんとメモしておいてくれよ、皆さんも気付いているように、この病院の周囲は常時、マスコミ関係者のタマリ場のようになっています。外来患者も入り難い状態になっていますから、これからさらに減少するでしょう。診療停止の張り紙は土曜日中に玄関正面に貼付します。

午前中の理事会では、今月中に閉鎖したほうがいいというような短絡的な意見を出す者がいましたが、そんな無茶なことはできません。段階が必要です。しかし、状況によっては閉鎖日がずっと早まることがあるかもしれません。残念ですが。そのときでも残っていて下さった方の勤務日数は三十日になります。念のために……」涙声になった大日向は言葉につまらせ目頭を押さえる。

「……このような管理者会議はこれが最後になります。これから、こういっている私が管理業務の怠慢、いわゆる背任罪に抵触するといって逮捕される可能性が十分にあります。

時間の問題かもしれません。、皆さん、自分の身を護るために最大限の注意を払ってください。以上で会議を終わります。ご苦労さまでした」

一時間余りで管理者会議は終了した。会議といっても、出席者に発言する者はいない。また発言する要もなかった。いつものことだったが……

きょうの会議も単に理事会での決定事項を通告するだけの場だった。それも外賀綜合病院の終焉日と、解雇通告の方法を呈示しただけのこと。理事会の決定事項に対して異議を唱えることなど、単に「職員」という立場にあるものにはしてはならないことになっていた。

何事も理事長であり院長である外賀萬蔵の一言で決定する、超ワンマン経営だった。

決して理事会に反旗を向けないこと……それがここの「掟」だった。

会議室を出ていく面々はみな無言だ。エレベーターホールまでの間で、数人が何か小声で話をかわしていたが内容はわからない。全員が退出した会議室には大日向がひとりだけ残っていた。腕を組んで立ったまま、正面の壁に掲げられた病院長、外賀萬蔵の写真を睨みつけていた。袴に紋付羽織という時代ものの写真だが、当時の軍医中将という肩書きを証明するように、逞しさがにじみでている。鋭い目が室内を睨みつけていた。

 

・・・おい、外賀さんよ、なぜワシの忠告を無視したんだ、おい!

ここは、あんたの病院に違いないよ、たしかにそうだ、だから

潰そうが、潰すまいが、オレの勝手じゃないか、と、あんたは言うだろう

しかし、あんた、ここで勤めている人たちのことを

一回でも考えたことはあるんかね、ええ? あんたのバカな行動で

この外賀綜合病院がついに閉鎖されることになったんだぞ、あんた!

その決定的な原因が、おまえがやった、麻薬の横流しという最低の行為だった

なにを血迷ったことをやっていたんだ、おい、外賀さんよ!

ワシが注意したあのとき、あんたが、ほんとうに止めていたら

こんな、とんでもないスキャンダルにはならなかったんだぞ! バカ野郎め!

皆に解雇予告することにもならなかったんだ

懸命に働いてくれた職員の皆が、何の罪もないのにここから放りだされるんだ!

そんな人たちの口惜しさが分かるか? おまえになんか、分かる筈がないよ!

なんという出来損ないなんだ、おまえは! 偉そうな顔をしおって・・・

 

大日向は外賀の写真を見ながら、体の奥底から噴き上がる怒りに拳を握り締める。外賀の手先となって裏金づくりの細工をしていた薬務局長の三田村にも裏切られていた口惜しさもその拳にこめられていた。三田村が先方業者から有印の納品書や請求書を予め入手し、勝手に先方の打刻文字のソフトまで作成して、伝票の操作をしていたことを、昨日の三田村連行の折り捜査員が大日向に告げたことで始めて知った。

三田村の直接の上司である大日向がそのときまで知らなかったという事実は、監督者としての職務怠慢であることは明白、当局の追及は避けられないだろう。午前中の理事会でも、大勢の理事が、大日向の職務怠慢を指摘、追及してきた。

そんな理事たちの動きに、大日向の怒りが爆発した。

「それだけ言うのなら、あんたたちならどうした? 自分の部下たちの業務を常時、うたがいの眼をもって監視することが出来たというのか? 常に監視するのがワシの仕事だというのか?」そういう大日向の言葉に誰ひとりとして反論しようとしなかった。

「……業務を任せるということは、信頼するということが条件だ。誰にでも疑いの眼を向けながらでも業務が遂行できると、あんたらは思っているのか? そんな気持ちで業務が完遂できると考える人は挙手してくれ。すぐ、私の業務を委譲しよう。どうだ?」大日向のそういう問いかけにも誰ひとりとして手を挙げる者は一人としていなかった。

「……いいかな、みんな、何事においても、結果だけをもって、ひとを批判してはいかん。もちろん、ワシに責任がないなどとは、もうとう考えてはおらん。しかし、三田村君を信じていたことが間違っていたとはまったく思っていない。彼の行為は病院長からの命令という、ふつう、拒否できない事情があったものとワシは断定している。

君たちだったら、どうだ? はっきり拒否したか? 自分の身をも犠牲にして…… この場でワシは断言しておこう。そんな度胸がある者は、ここには一人としていない! もちろんワシを含めてだが。いいかね、人を批判しようとするときには、ことを自分の身に置き換えて、実際に批判できることか否かをよく考えてから実行するんだ。胆に命じておきたまえ……」と大日向に一喝された理事たちは、それから反抗的な態度にでることは完全に消えうせていた。

「もう、これからは、この理事会も開会の予定はない。終わりに一言いっておく。君たちがワシに責任を取れというのなら、いま、ここで辞任してもいい。ただし、君たちのなかに、ワシに代わってこの緊急事態を取り仕切っていける者がいるかによりけりだ、いるのか?

自信をもつ者がいたら、手を挙げてくれ……」当然のことだが、手を挙げる者などいるわけがない。ただ下を向いているだけである。

「……危篤状態にあるこの病院だ。生き返らせることは不可能だ。これからは閉鎖によって罪のない職員たちへの迷惑が少しでも少なくなるよう皆が努力することを願うだけだ。

医師や看護師の再就職先を最優先で探るのが、経営者側である、我々理事のにいま、残された職務なんだ。君たちは関連する諸機関と連絡をとり、一人でも多くの職員が再就職できるように努力されたい」そう締めくくって理事会を終えた大日向だが、出席していた理事たちの何人が大日向の言を理解して行動に移すか、それを期待するのは無駄なことだと大日向は思っていた。口だけが達者なのがここの理事たちだったからである。

 

(つづく)

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