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長編小説 霧のなかの巨塔  第21回

第二章 灯りを求めて

■迷路②

外賀総合病院第3処置室では静かに時間が流れていった。手術台のような処置台に寝かされた患者の口内へ慎重にカメラケーブルを挿入している恵美の主治医、堀口亘の横には准看護師の松川由美が立っている。

堀口がケーブルを5-6センチほど挿入したとき、処置室隅にある電話が鳴り松川が走った。

「うるさい電話だな、こんなときに、一体どうしたというんだよ、まったく……」堀口は処置を続けながらつぶやくようにいう。

「はい、第3処置室です……はい、おられますが今処置中です……えっ? はい、ICU室12号の田川さん、はい、ちょっとお待ちください。先生、水田婦長さんですが、ICU12号の田川さんが心停止だそうです。至急、お願いしたいと……」

「うん、わかった、今行くといってくれ……」

「もしもし、はい、今行かれます……はい、わかりました」電話を終え松川が戻ってきた。

「糖尿病性昏睡のクランケだ。参ったなこんなときに……仕方がない、松川君、ちょっとの間だけ替わってくれや。早くしないとクランケの麻酔が切れてしまう。この操作、これまで幾度かしたことがあるんだろ?……」脇に立つ松川を見上げながら堀口がいう。

「はい、何回か操作しています」

「よし、それなら今10センチ挿入済みだ。開口部から23センチまで挿入を終えたら、そのまま待っていてくれ。今から15分経っても私が戻らなかったらICU室に電話してくれ、いいな、頼んだぞ……」

「はい、分かりました」はきはきと答える松川だった。

「よし、直ぐ戻るからな……」堀口はサンダル音を響かせ、駆け足でドアの外へ飛び出す。

松川は慎重に口内を覗きこみながら挿入操作を続ける。

 

このとき、松川は取り返しのつかない勘違いをしていた。既に10センチは挿入してあるから器具をつかって開口固定している箇所、即ち歯の部分で23センチのマークがでたら、そこで止めろと堀口は指示したのだが、松川は自分に交代してから23センチの挿入をしろ、といわれたものと思い込んでいた。10センチの過挿入は大変な結果をまねくことになる……

この日、松川は恋人とちょっとしたトラブルになり冷静さを欠いていた。また堀口も現場に緊急呼び出されたことで気があせり、いつものように確認の復唱をさせることを怠ってしまった。これは堀口の重大な業務上の過失だったし、松川は職務遂行上、弁解の余地がない重大な聞き違いという過失があった。また指導者の立会い指導なく医療行為を行なえない准看護師に、単独での医療行為を命じた堀口には医師法に抵触する違法行為になる。事故が起きたときには二人とも刑事上の追及を受けることは必至だろう。予期せぬ事故というものは、弁解の余地のないミスが重なったときに多く起きるものである。

恵美の大きく開けられた口内に挿入されたケーブルの目盛が29センチになったとき、運悪くケーブル先端のカメラが胃幽門部にある潰瘍状になった出血部を強く引っ掻いていく……そのままカメラは胃壁を突き破り腹腔内へ抜けてしまった。爆発的な大出血が始まる!

出血は瞬く間に腹腔内を満たし、横向きに寝かされた恵美の口と鼻口から真紅の噴水となって噴き出した。口を覗きこんでいた松川の顔も腕も鮮血を浴び悲鳴をあげる。

「ギャーッ……!」松川は動物的な声をあげて電話台へ走る。処置台の下の床タイルが見る間に血の海となっていった……

 

旧館2階にあるICU室(集中治療室)の12号ベッドの周囲を7、8人の医師や看護師が取り囲んでいた。いつもは静かなICU室だが、今は医師や看護師の大声や怒号が乱れ飛び、混乱のさなかにあった。このICU・C室には他の入院患者はいない。

12号ベッドの患者は全裸で仰向けに寝かされ、人工呼吸器によって強制的な呼吸をしている。

50歳くらいだろうか、痩せた体だ。頭の中央近くに5センチほどの円い脱毛部がある。多分、円形脱毛症なのだろう。蒼白い体には生命の存在を感じさせるものはない。

「心停止から今で何分経過してる?」堀口は患者の上に馬乗りになって切開した胸部から手を入れ、直接に心臓マッサージをしながら婦長の水田に訊く。コメカミあたりから大粒の汗が流れ落ちていた。その汗を若い看護師がガーゼで拭う。

「13分10秒の経過です」

「13分か。心臓マッサージを始めてから4分……まだ心筋の色は戻ってこないな。開胸時より若干は色を増した気はするが、まだまだダメだ……」薄いゴム手袋の手で心筋を掴み、心臓が鼓動しているがごとく、収縮と拡張のサイクルを繰り返す。

「水田さん、プロカインアミドの心筋内注準備をしてくれ……それから、平手君……」

「はい、医長……」30歳前後の痩せた医師が答える。細い金ぶちのメガネがその医師の何処か神経質そうな感じを強調していた。

「うん、平手君は電気ショックの準備を頼む。レベルは1.5でいい」周囲の騒がしさから堀口は怒声のような声で指示を出さねばならない。

だが眼はマッサージを続けている心筋から離さない。気のせいだろうが一分ほどの間に心筋に赤みがでてきたように思えた。

懸命に心臓マッサージを続ける堀口。心電図ディスプレイに表示される心拍数は堀口が手を止めると数値はゼロになる。まったく自発性は戻っていない。しかし、心筋の色はマッサージを続けたことで赤みがだいぶ戻ってきた。

「よし、循環が戻ってきたぞ! 水田さん、プロカインアミドをくれ……」堀口は水田が差し出す注射器で心筋に内注する。

「あと2分、心臓マッサージを続行する。そのあと電気ショッ……」12号ベッドの院内専用特殊無線電話がなって堀口は口をつぐむ。処置室の松川からの電話だろう。水田がとる。

「はい、ICU……えっ、なんですって!……慌てないで落ち着いて話しなさい!……」

堀口の方に向き直って電話を受けている水田。堀口の体を不吉な予感が突き抜けた。

「……大出血が始まった? わかった、すぐ堀口先生が行く!……」水田婦長の様子に堀口は全身に冷水をかけられたような感覚を受ける。自分でも顔から血が引いていくのがわかった。

 ……イヤな予感が当たってしまった! いったい、どうして……

「堀口先生、大至急、第3処置室へ! クランケが大出血を始めたそうです! あとは私が……」

「婦長、頼みます。胸部縫合は外科の谷川君を呼んでください」そういい残してベッドから飛び下りると白衣をひるがえしてドアから飛び出す。階段を駆け上がり通路を走り抜けた。

第3処置室のドアに体当たりするようにして飛び込む。処置台下の白いタイルが血の海になっていた。患者の口からはまだ鮮血がしたたっている。

「なんだ、おい……! 29センチにもなっているじゃないか! あんた、なにを聞いていたんだ! 23センチで止めろと指示しただろうが! バカモノが!……」

看護師を叱りつけながら、慌ててケーブルを抜こうとした堀口だったが本能的に止める。

 

……これだけの長さのケーブルが挿入されてしまっては

縮小してしまったクランケの胃はケーブルで穿孔を起こしてしまった!

腹腔内へも大量に流出しているはず ケーブルを抜いたら栓を抜くと同じことに

出血量がさらに増える このまま輸血と止血剤の投与をしながら

帝北大学病院に移送するほかない 父の力にすがろう

急ぐんだ! 一刻をあらそう事態だぞ! 急げ!……

 

堀口は立ちつくしている松川由美を無視して電話台へ走る。

「あ、堀口です。クランケが大出血を起こした。O型血液を1000cc、カチーフNを2単位、大至急第3処置室へ。大至急だぞ、それから救急車を要請してくれ。帝北大学病院へ移送する。

いいか? それから、小山君と大信田君に直ぐきてもらってくれ、うん……うん……そうだ、頼んだぞ!……」医局への電話を切ると、すぐ外線に切り替え番号を叩いていく。

「あ、おふくろ? 亘です。オヤジさんいる? うん、お願い、大至急……あ、お父さん、休みの日に申し訳ない、助けて下さい……いや、ちがいます、看護師がミスをしてクランケの胃壁を胃カメラで穿孔を起こさせたんです……ええ、そうです、大出血で、いま止血剤……はい、緊急手術をお願いします……ええ、40分以内に到着します……いや、まだです、これから……そうですか、お願いします……クランケのカルテや写真資料はわたしが持っていきます……はい、お願いします……」

 

「えっ? 恵美の容態が急変?……」逸平が呻くような声で訊く。博樹たちも声が出てこない。

みな、知らせにきた若い看護師の顔を呆然とみつめるだけだった。

今のいままで、恵美が意識を取り戻してこの病室へ戻ってきてくれるものと確信して待ちつづけてきたのに……これから大学病院へ緊急移送されるとは! いったい何が起きたんだ?

「どうしたんですか? 家内は!……」

「はい、その件についての詳しくは搬送の途中で担当医からご説明します。止血処置中に大出血が起きたそうです」そう話をすると、急いでついて来るように手招きし、ドアへと向かう。

看護師は小走りに通路を歩く。時折り後ろを振り向きながら……

「付き添いをされる方は?」

「はい、わたしが行きます」と逸平が答えた。エレベーターは直ぐ来る。

「じゃ、お母さんも皆も、片付けが終わったら、帝北大学病院へ……頼んだよ」逸平はエレベーター前に立つ家族に言い残すとエレベータードアを閉めた。

「おばあちゃん、オレ、下まで行って来る、お兄ちゃんも行こうよ」正樹はそういうと、横にある階段を一気に駆け下りていく。

救急車は玄関前にとまっていて、恵美はすでに車内へ移されていた。母の顔をひと目みたいと玄関まで走り出た正樹と博樹だったが願いはかなわなかった。救急車後部のタラップを父が上がるのを二人がじっと見つめているほかない。

救急車のストレッチャーで右下にして横たえられた恵美の顔はきれいに拭われていたが、口のあたりは新しい出血で汚れている。口内に挿入されたカメラケーブルはそのままだったが、逸平には出血に対する処置に思えた。車内の蛍光灯によって恵美の顔色は一層に蒼白くみえる。

恵美の両脇には堀口と看護師、救急隊員がいる。救急隊員が恵美の体に何本もの電極を固定していく。それを看護師が手伝っていた。両腕には輸血と点滴用のチューブが繋げられている。

「酸素吸入はどうしましょうか」救急隊員が堀口の指示を求めた。

「呼吸数は33か……大丈夫だな、今のところは要りません」

……ピーポー、ピーポー……救急車はサイレン音を響かせながら病院の玄関を出ていく。

車内正面にあるデジタル表示盤には幾つもの数字が赤く表示されていた。数値はリアルタイムで変わっている。

「動脈圧は68に42か……だいぶ出血したな」堀口はつぶやくようにいう。

「佐野君、輸血速度を少し遅くしてくれ。いま、動脈圧が上がると危険だ。この状態のままを続けたい……」

「先生、家内の容態はどうなんでしょうか……」逸平は待ちかねたように、向かいあっている堀口に尋ねる。

「はい? なんですか? サイレンの音ではっきり聞こえません」大きな声で堀口がいう。

「家内の容態はどうなんでしょうか?」今度は堀口の声につられるように大きな声でいう。

「どおって……姿さん、ご覧のとおりですよ、全身麻酔をして止血処置をしようとしたところ、また突然の大出血が始まったんですよ。ずいぶん大きな出血部があるようです。麻酔はもうきれているんですが、貧血が強くて意識は一度も戻っていません。出血性のショック症状です……」

「まだ、意識が戻らないなんて……大丈夫なんでしょうか……」大きな声を出したつもりだったが、言葉じりは聞こえなかった。不安感のために声がだんだん小さくなってまう。

「今のところ、なんともいえません。もちろん、わたしたちは全力を尽くしますが、ただ病変部の太い静脈が破裂するほどまでにガン巣が浸潤していますからね……また、方々への転移もあります。せめて、半年早く治療に来ておられたら、状況は大きく違っていたと思いますよ。ま、これは結果論になってしまいますけどね……」堀口は平然といってのけた。

自分たち医療スタッフである看護師の勘違いで、こんな救急移送を必要とするような重大な医療ミスを起こしてしまったのだ。しかしそんなことは、如何なることがあっても口外することはできないこと。この外賀総合病院の名誉にかけて……

『患者の来院が遅すぎました』とか『もう少し早くこられれば助かったかもしれません』また『ですが、わたしたちは全力を尽くします』といった言葉は実に便利な言葉で、ガン患者を診察する部門の医師たちにとって、必要不可欠なセリフだった。それを如何にうまく演出するかが、担当医の技量であり、義務であると堀口はいつも思っていた。

たとえ半年前に受診していても、決して治すことができない今の医療であるのに。

看護師や医師による誤診、投薬ミス、輸血ミス、検査ミス、手術ミス、或いはこれに准ずるニアミスはここ外賀総合病院でも幾度かあったことである。極端な例では子宮摘出手術のおり、執刀医師が止血鉗子を腹腔内においたまま閉腹してしまい、その夜猛烈な腹痛を訴え、X線検査したところ止血鉗子がみつかったが、腸の蠕動によって下行結腸が損傷を受け重い急性腹膜炎を併発していた。家族には摘出による内臓下垂で大腸が閉塞した結果で、位置の修整をしたからもう大丈夫と、見事なデタラメをいって逃げたこともある。

医師も看護師もふつうの人間である。自分たちがミスをしたときにはそのことを何かの理由をつけて隠しとおそうとする。それは人間としての本能だろう。そしてほかの社会では無理であっても「医療」の社会では自分たちの出方によって、たいていが隠しとおせるものだった。そのわけは、患者や家族は医師の自信あふれる言葉と権威に畏れをなすためである。

今日の松川看護師による医療事故にも、堀口はその定義どおり冷静に対処した。自分ながらも悪どさが身についてしまったものだ、と心のなかで密かに苦笑する。

 

堀口亘はいま向かっている帝北大学医学部・第3外科教室の主任教授であり、第3外科部長と付属病院副病院長を兼務している鬼塚喜八郎の次男である。

兄の龍一は東大医学部を卒業後、日本医薬大学付属病院の第1外科医局を経て、いま米国の聖コーネル大学へ客員教授となって家族とともに留学している。もう6年を経ていてあと4年を終えて帰国したときには日本の系列病院である東京駿河台のセント・イザベラ病院、第2外科医長に就任することが約束されている。完全なエリートコースにのっていた。

そんな兄にひきかえ次男の亘は、学力は遥かに兄を上回っていたが、国立大学は受験せず二流といわれる私大の医学部へ入学、首席で卒業した。兄をことさら大切にしていた父母への反抗だった。専攻も意識的に外科を選ばず内科にする。医師試験合格と同時に学生時代から交際していた外賀総合病院の病院長、外賀萬蔵のひとり娘、みどりと結婚する。碧は萬蔵と離婚した母、美奈子とともに堀口家に入り堀口姓になっていた。そして堀口家には男子がいなかったため

堀口家の娘婿として入籍した。亘の父母の強固な反対を押し切って……

医師試験合格後の研修過程を終えたあと、都立の病院に勤務していたが、外賀萬蔵から自分が経営する外賀総合病院の内科へ入局するよう誘われる。待遇は現在の所得の2.5倍である。

破格ともいえる好条件に文句などあるはずがない。すぐに都立病院を退職し外賀総合病院に移った。それから現在までの10年余り、医療技術は抜群で院内での信頼は強く、今は12名の医師を部下にもち一般内科を担当する第1内科医長という立場にあった。

妻の碧とのあいだには一男一女にも恵まれた。当初は婿養子になった亘に激怒し、結婚式にも顔を出さなかった喜八郎だったが、孫可愛さから子どもが生まれてからは毎週のように週末になると母の奈津とともに亘の家を訪れ碧や孫たちと楽しい時間を過ごすようになっている。

亘も若いときのように父母へ徒に反抗することもなくなり、両親が訪ねてくれるのを心から楽しみにしていた。そんな平穏な日々が続くなか、こんな事故が起きてしまった。だが、この事故も自分の威厳と自信によって何事もなく経過していくものと考えていた。

医療のミスというものは方策ひとつによって、無難に経過させることは医師という立場にあれば容易なこと……これまでの例がそれを証明している。

……患者もまた家族たちも、その事故の経過を知らないのだから、そこのところは巧妙に演出さえすれば、なにも難しいことはないさ、今夜の例なんか、搬入されたときから意識不明の重態だったんだぞ、出血多量で……いまもって命があるだけでも奇跡なんだ……

堀口はそう楽観していたが、今度だけは、堀口が思いもよらない方向へ進むことになる。

甘い考えはいつまでもまかり通るものでないことを、身をもって教えられることに……

 

救急車はサイレンの音を夜更けの街にこだまさせながら帝北大学病院へ急行する。別々の運命をもつ人たちを乗せて。立ち並ぶビルや家並みの間から、遠く、帝北大学病院の屋上ポールにある赤い3つの回転灯が見えてきた。

 

外賀総合病院、旧館2階のICU・C室は入院患者はいないが、堀口たちが懸命に救命処置をしていた12号ベッドには患者が横たわり、青いカバーをかけられた毛布から頭が出ている。

顔には白い布がかけられ、胸元が少し高くなっていた。両手を胸で合掌しているのだろう。

そんな内科ICU室の隣りにICU医局がある。深夜11時を過ぎた今も数人の医師と看護師がいた。今夜の当直勤務なのだろう。そんな医局に並ぶ机の一つに内科看護師長、水田能婦子が座り、その前の折り畳みイスには看護師の松川由美が座っていた。

うなだれて座る松川の顔には血の気がない。

「ねえ、あんた……前にも輸血患者の血液型を間違えて、違うパックをもってきたことがあったわね、あのときは幸い斉藤さんが気づいてことなきを得たけど……もし、あのとき誰も気づかずそのまま輸血していたら、この病院の存在も危うくなったところなのよ! 今日だって、そう、何をポケッとして堀口先生の指示を聞いていたの? 黙ってないで、何かいいなさいよ!」

「……」松川はうなだれているだけで何もいおうとしない。

水田は何も弁解しようとしない松川に苛立っていた。自分がしたことにウソをついてでも正当性を主張するような逞しさがほしかった。どの病院でも医療ミスは日常的に多発していた。

この病院でも例外ではない。医師や看護師、ことに看護師の不足は多くの病院で慢性的な状況になっている。このために現在従事している看護師の勤務時間は想像を絶するハードなローテーションを強いられていた。なかには週の4日間は16時間労働という病院もあった。医療事故の大多数はこのような看護師の過重勤務の疲労からきた、ちょっとした不注意から重大な事故に至ったものである。それらの多くが表に出ることはない。担当者のしたたかさと、病院関係者のもみ消し工作の結果である。ときによっては関係者がうまく工作し、隠滅が成功したのに、肝心のミスをおかした担当者が良心の呵責に耐え切れず、警察等の官庁へ自首することがある。

折角の工作が水の泡と帰すばかりでなく、証拠隠滅、あるいは偽証などといった手入れになり、最悪の場合は病院の崩壊に至ることもある。

水田師長にとっての心配は、松川由美にしたたかさがないことだった。「正直に生きる」ことは一般の社会では貴重な存在だろうが、この医療の社会はある程度ずるさがないと周囲からの圧力に負けてしまい、強く生きていくことはできないのである。こうしたタイプの人間はスキャンダルを露呈させることが多い性格であることを水田は知っていた。そのため、松川の性格を叩き直したかった。松川のためではない。自分たちのために。

 

「ほんとうに申し訳ありません。どうしてあんな思い込みをしてしまったのか、自分自身がわからないのです」

「えっ、なんだって? なにをさっきからボソボソいってるの! 正免許がない自分に仕事を命じた先生が悪いとか、確認の呼称をさせなかったからだとか、どうして開き直った態度がとれないのよ、あんたは!」水田の怒りは頂点に達した。

「……まったく、あんたという人は……なんて煮えきらない人なんだろう……どうして、もっと自分を弁解できないの? あんたの話を聞いているとこちらの方が惨めな気持になってしまうじゃないの!」そういうと水田は眼前にあったバインダーを頭の上に持ち上げると、力まかせに机の上へ叩きつける。バーン!という大きなな音とともに、挟まれていた書類の束が周囲にまき散らされた。

「水田さん、そのくらいで勘弁してやりなさいよ……」当直医の佐川が見るに見かねて助け舟を出す。「……松川君はわざとやったんじゃないよ。勘違いをするにはいろいろと事情があったんだろう……もちろん、重大なミスをしたことは事実だ。松川君はとことん反省をして、二度とこんなことを繰り返さないように努力しなけれぱならん。業務中には他ごとを考えていてはダメだぞ、真剣に業務に打ち込むんだ。ま、師長、ガミガミいうことはそのくらいにしなさいよ……」

「先生はそうおっしゃるけど……この子、松川さん、ほんとうに分かるかしら……」

水田は机に置かれた自分のメガネをかけると、ジッと松川を見据える。松川はうつむいたまま、ハンカチで口を押さえていた。顔は涙で濡れている。

「これから、ほんとに、間違いない仕事をしていく自信はある?」水田が松川の顔をのぞき込むようにしていう。その声にはさきほどのようなヒステリックなトゲは感じられない。

「はい、もう、二度と……」松川は震える声ではっきりとした声で答えた。

「ほら、松川君は今度こそ分かっているんだから、もう許してやりなさいよ。なあ、松川君、これからは、間違いをしない慎重な業務に徹するんだぞ、わかったな」やさしく諭す佐川に松川は深く頭を下げた。

「佐川先生がこうおっしゃるから、これで止めるけど、今度またこんなことがあったら、あなたの看護師としての道は閉ざされることになるわよ、わかった?」水田の問いかけに松川は黙っててうなづく。顔はあいかわらず下を向いたままだった。

「はい、じゃ、あなたの今夜の当直は私が代わるわ。それからあなた、来週日曜日まで自宅に帰っていなさい。あした午前中にあなたのその後のローテーションを知らせるから、そのときまで部屋にいてくれるかな、いい?」

「はい、分かりました、お願いします。ほんとうにご迷惑をお掛けしてすみませんでした」松川は顔を上げ、しっかりと水田師長の目を見て答える。

「はい、頼んだわよ、明日の午前中にはローテーションを知らせるから。ご苦労さまでした」水田は今度はやさしくいう。

「ほんとに、すみませんでした……」

頭を深く下げて立ち上がり、医局を出ていく松川の足どりは余りにも弱々しかった。

「ご苦労さまでした、おやすみ……」水田と佐川が松川の背に言葉をかける。

「松川君、頑張ってくれよ、なあ……」佐川医師が励ますように、やさしく送りだした。そんな二人に松川は顔にハンカチを当てたまま深く頭を下げる。

水田師長や佐川医師、そのほか外賀総合病院のスタッフたち皆が、このとき以降、松川由美の姿を二度と見ることができなくなることなど知るよしもなかった……まして、この外賀総合病院が崩壊の道を辿ることなどなおさらに……

 

帝北大学第12手術室では今も恵美の緊急オペが続けられている。オペ室の時計は午前3時20分を少し過ぎていた。オペ開始から約4時間が経過している。開腹した結果、外賀総合病院の堀口医師が診断したとおりに、食道下部には進行した硬性癌、胃幽門部には大きな噴火口状になった潰瘍性の癌、膵頭部にも進行した硬性癌、さらに肝臓にはヘパトーム性の潰瘍癌があり、一部は壊死状態になっていた。どれも進行し尽くしたと思えるステージⅣの末期癌だった。

恵美の多臓器が末期の癌に侵されていたのである。大出血の原因は胃カメラ本体が狙ったかのように潰瘍状になった腫瘍中央部を深く抉り、胃壁を突き抜け腹腔へ至っていた。胃壁が直径で3センチほど外側にめくりあがっていて、よほど乱暴なケーブル挿入をしない限り、このような損傷が起きるはずがないと執刀医の鬼塚は考えていた。幸いにして動脈の損傷がなかったことで、恵美の尊い命が消えることにはならなかった。不幸中の幸いといえよう。

もし、あのとき堀口が慌ててケーブルを抜き取っていたら損傷部をさらに拡大させ、いっきに近くの動脈まで傷めて動脈出血を引き起こし、恵美はあの処置室で命を落としていただろう。

ケーブルを挿入したまま救急搬送した堀口の適切な判断によって恵美は「生」への扉に近づくことができたに違いない。開腹したとき、腹腔内には約1000ccほどの血液が流出しており胃内にもまだ400ccほどが残留していた。これまでに2500ccの輸血をうけていたから

恵美は自分の血液のほとんどを失って、他人の血液と入れ替わったことになる。それはともかくとして、恵美はいま、瀕死という魔の淵から這い上がろうとしていた。

 

執刀医の鬼塚は出血を止めるために、まず胃を全部摘出、そして外科処置が可能な部分のリンパ節もできる限り郭清した。胃は、食道下部の硬性癌と共に摘出する。胃壁が膵臓の一部と強く癒着していて、剥がすことになると却って膵臓への損傷が大きくなりここからの出血も懸念されたため、癒着部は組織ごと切除し、直ちにその箇所を結索し縫合した。膵頭部の癌腫は切除不能で、膵頭部は腫脹が激しく、十二指腸を強く圧迫、その箇所は潰瘍状になっていたため、胃とともに切除、主膵管、副膵管、共通管、胆管のすべては空腸に接続し、食道バイパスチューブを空腸に接続したが周辺のリンパ節郭清はとてもできる状態ではなかった。また肝臓にみつかったヘパトームはCT撮影の所見より遥かに浸潤部が深く手のつけようがない。

「……ようし、食道外筋膜とバイパスチューブの吻合にかかる。ゾンデの位置は……吻合部から食道切除分の8センチをいれて、23センチ下方だ……よし、そこだ。食道切断部、十二指腸切断部、膵臓切開部、いずれも出血なし。縫合不全なし。OKだ。よし、ドレーンを留置する。

大河内君、ドレーンの留置箇所、正位置の15センチ、なぜかということ、わかっとるな。絶対に確認を要する重要な事項だぞ……」ゾンデの位置を示しながら若い医師にいう。

「はい、了解しています。せんだって広田教授のオペで助手を務めさせて頂いたとき教えて頂きました」若い医師は丁重な言葉で答える。鬼塚教授の助手になれたことに感激していた。

鬼塚はそんな大河内の言葉に応じることなく処置を続ける。

「10ミリ自在チューブ……」

「はい……」看護師が細い透明のチューブをゴム手袋でつまんで渡した。

「やや、十二指腸の切断部が隠れちまったな……」そういいながら膵臓や肝臓を押しのける。

オペの開始から7時間以上も経ったというのに、鬼塚はまったく疲れを感じていないようだ。

「5号絹糸を縫合針に……」手を休めて鬼塚が待つ。そのコメカミの辺りから汗が流れている。

看護師はその汗をそっとガーゼでぬぐう。鬼塚は瞬間、正面を見る。

「山下君、なぜ、チューブを腹壁に固定する?」

鬼塚教授は突然、大河内の横に立つ痩せ気味の医師に質問した。

「はい、オペ操作中に留置したチューブの位置が変わらないようにするためです」急に質問されて驚いたような顔をして答える。

「答えなんか期待しとらん。君はさっきから睡魔に襲われとる……ここのみんなは、眠くともこうして頑張っとるんだ。しっかりせんか!」

「はい、申し訳ありません……」

鬼塚から叱責されたその医師は深く頭を下げてから、きまり悪そうに周囲を見回した。そんな彼の後ろに立っていた同年輩と思われる医師が軽く山下の肩にさわる。

「よし、閉腹する!」

周囲で沈黙している人たちに喝を入れるように鬼塚は大きな声でいった。8時間ちかくを要した大手術にようやくピリオードが打たれる。それから20分ほど後には第12手術室の大きな扉上にある「手術中」という赤い表示は消えていた。中央手術センター入口の壁時計は午前6時33分を示している……

 

(つづく)

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